南野 尚紀
右翼、左翼という言葉が、地上にはあるが、この概念は天国にはない、ないしは、地上を見下ろした時に、そういう概念が地上にはあるということを天国の神様、女神様が把握しているのみにとどまっているらしいことの類推ができる。
先日、チェコの映画監督・ヤン・シュヴァンクマイエルの『Faust』を観た。
1994年に公開された映画だが、日常を生きる男が、果敢にも、地獄に通じている地下と現実世界を行き来して、悪魔と孤軍奮闘するという内容だ。
その映画では、主人公・ファウストが、天国から地獄に落とされたルシファーを召喚して、地獄を消滅させるための伝令を送らせる。
アヴァンギャルドフィルムなので、ストーリーがまとめられるわけはないが、ポルトガル王が、「ダヴィデを左に、ゴリアテを右に」という指示をファウストに出す。
結果として、ファウストは王様が逃げたのを見て、悪魔を消滅させる際の王様の指示に限界があることに気がつく。
イエス・キリストも立場上、地獄の掟を探究することは不可能なのだろう。イエスはファウストを助けようとするが、彼はイエス・キリストに見捨てられても、地獄の悪魔と戦うことを決意する。
このことから、地上で左翼と呼ばれているものは、天国では神学であり、右翼と呼ばれているものは、美学に置き換わるという類推ができる。
地上でもそのような位置づけはあるが、神学は信徒の恩寵・平穏の日々を守らなくてはいけないため、美学ほど、悪魔と戦う状況にないようだ。
つまり、悪魔を殺す術を心得ているのは、キリスト教信者よりも、美人、美学者に多いということになる。
天国では、そもそも悪魔がいないので、その役割分担も、地上がカオスに陥った時に、地上を見て、だれを地上に派遣するかを天国の会議で決定する時のみに使う役割分担と言えるだろう。
ルネサンスというのは、神学も隆盛したが、その実、美学に重きがある文化だ。
ルネサンスの先駆であるダンテは、神学にも詳しかったが、『神曲』では、美と愛の女神であるベアトリーチェのことを書いた。
つまり、ダンテもどちらかと言えば、美学を重んじていたのだろう。
ダンテが生きていた時代も、世界史上、今の時代と並んで地獄に近かった暗黒期だ。
大シスマなどで、宗教が腐敗した時代に、美学の力で、悪魔を薙ぎ倒し、地獄を封じ込めたのだろう。
今期こそは、地獄を本当に消滅させる決起なのかもしれない。
イタリア語では、「右」、「右翼」は「Destorraデストラァ」、「左」、「左翼」は「Sinistoraシィニストラァ」と言う。
「Destora」は、「破壊する」を意味する「Destroy」とも関係があるし、「運命」と関係がある「Desteny」とも関係がある。
「Sinistra」は、「老人」を意味する「Sinior」とも関係があるし、「共感」を意味する「sympathy」、「会議」を意味する「symposium」とも関係がある。
これらの言葉から、天国がどう存在しているか類推できそうだ。
「Destora」は、明らかに、美学、美人の本質と関係のある言葉とつながっているし、「Sinistora」は、キリスト教神学の本質と関係がある言葉とつながっているからだ。
映画『Faust』を石原慎太郎が観たら、どう思うだろう、絶賛するんじゃないだろうかと僕は思っている。
「いたずらな議論に堕さず、一命を賭して、右、実践す」をモットーに青嵐会を創設したし、人生を賭けて、保守政治家を仕事とし、人権無視、国際法無視などをなんとも思っていない悪の権化・共産主義国家と戦ったからだ。
石原慎太郎も、徐々に時代がよくなる兆しが見えつつあることを、天国から眺めてよろこんでいるだろう。
彼は天国でも、美学・美人の側である中心人物から見て「Destora」にいるだろうと僕は思ってるし。
了