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Luna di miele No.2 精神的な豊かさと天国での結婚、パーティテロリスト、自我肥大、家族の地獄

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 南野 尚紀 

 自我が肥大しているという言葉は、人文学系の世界ではよく見かけるが、天国にはこの自我の肥大はあるのか?

 これについては、いろんな考え方ができるように思う。

 たとえば、そもそも天国には肉体や物質がないので、イデアだけが存在しているということになる。

 つまり、地上の言葉、特にヨーロッパの民衆、アジアの言葉は地上的なので、そういう言葉が用いられやすいし、そもそも天国がわからない人がほとんどだから、精神的な豊かさと自我肥大の誤認が発生しやすい。

 自我肥大もアカデミックに見えるが、その言葉の一種だ。

 つまり、天国では、精神的に豊かな方が、天国の中心に近くなるし、欧米、著名人の集まりでは、そのようなことを気にしなくなるから、それらは天国に近いということになる。

 地獄の底に近ければ近いほど、精神的な豊かさは、自我肥大と混同され、悪とされるし、天国に近ければ近いほど、その逆になるということなのだろう。

 しかし、例外もある。

 地上でも、天国に近い環境では結婚関係にあり、天国でも結婚関係にある男女は、お互いを補完しなくてはいけないので、男性の精神が豊かな場合、女性の方は、精神的に豊かであっても慎ましくしているということがあるようだ。

 その逆で、女性が精神的に豊かな場合は、男性の方が慎ましくなるのだろう。

 ダンテは世界でいちばん精神的に豊かな作品を書いたが、ベアトリーチェは精神的に豊かであり、慎ましさもある女性だ。

 僕が自我肥大を感じるのは、精神的に未成熟な話、新しい俗な文化の話、無機的な話をひたすらするのを聞いた時だ。

 天国は神、女神のパーティみたいなものとして、ダンテの『神曲』で書かれているけど、ふつうに考えて、大人のパーティの中で、精神的に未成熟な話をしたり、格式ある高貴な集まりで新しいポップカルチャーの話をしたり、文化人のパーティで、文化に関係のない機械の話を延々としたりしたら、気まずくなる。

 これらすべては、美人の集まるパーティ、イタリアのパーティには共通しているんだけど、美学的意識が低い話ほど、自我肥大につながっているので、天国には存在していないということなのだろう。

 地獄は天国に対するテロイズムが原理の1つなので、天国のパーティを壊そうとするものほど、地獄的だということは言えるが、それは同時に、美人の集まるパーティ、イタリアのパーティが壊れるものほど、地獄にのみ存在する自我肥大につながっているのだろう。

 自我というものは、そもそも近代哲学でデカルトなどが発した問いで、ポストモダンの時代にも、フロイトが自我、超自我の話を本に書いた。

 近代より前は、神話・神学が世界の中心思想だったので、自我は重視されていない。

 子供の頃、神様が信じていたこととはまた別に、スピリチュアル、ヨーロッパ思想、30代で目覚める女性というのはよくいるし、40代で神話、キリスト教を本格的に信じはじめる女性もいるが、近代以前と今後の世界は、この年齢の話とおよそ関係があるだろう。

 自我はそもそも、神学・神話と関係ない自分、超自我は社会と関係があり、かつ神学・神話と関係のない自分を指して使われていた言葉だが、地獄の近くだと、神学・神話と関係がある話をする方が、自我肥大だという存在論的な否定をされる。

 以前、エッセイに家族という観念は、天国にはないということを書いた。

 自我肥大は、精神的豊かさとその実、逆の関係にある。そして、自我肥大の1つに、家族関係を表現することがあるのだろう。

 僕は家族のことを表現しすぎることが気持ち悪いと感じているし、知る時も不快感を覚えるのだけど、これは表現する人間の自我が肥大しているからであり、僕の中で、肥満の女性を見る時の感覚とそのまま一致している。

 肥満の女性でも時々、キレイに思える女性がいるので、肥満女性のすべてが美学的に優れていないとは言えないが、ほとんど例外なくそうだし、精神の方は絶対なのだろう。

 そして、家族のことに関心があるのは女性の方が多いし、それを自我肥大に見せないように、いかに潜り抜けて、男性を補完するかは、女性たちの地上での課題だ。

 エレクトラのレベルまで行くと、悪である家族を殺害するし。

 フランス人作家・アニー・エルノーは、小説『もうひとりの娘』で夭折した姉の話を書いているが、彼女の慎ましい書き方はダイエットに励む女性の懸命な姿を思わせるし、それも他の小説に登場する運命の男性である彼が家族の観念が地上でもない、だから、地上では、せめて私が家族の観念をキレイに描いて補完しなくてはいけないという、天国に対する情熱でこの作品を書いたということになる。

 結果として、アニー・エルノーも天国という家族が存在しない世界の中心にいるので、天国での最愛の男性との補完関係を応用して、地上で家族のことを書いたのだろう。

 現に、他の恋愛小説には、家族のことはほとんど出てこない。

 僕も、もっと精神的に豊かな作品を書いたいし、家族のことはほとんど書きたくない。

 神学・神話、スピリチュアルについてももっと書きたいし、将来の結婚相手と話したい。

 そして、彼女の慎ましい姿、慎ましさから解き放たれて、精神性の豊かさを解放した姿を見るために作品を書き続け、そのような彼女に会いたい。

 それこそが地上、さらには、天国の中心で、最愛の女性と最高の結婚するための準備であり、結婚生活の準備に他ならないからだ。

了 

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