南野 尚紀
日本のボサノヴァ歌手・小野リサには、「Sambou Sambou」という曲がある。
「サンバを踊った、サンバを踊った」という意味のブラジルポルトガル語だけど、僕も人生、一度でいいからサンバを踊ってみたい。
昔、詩ばかり書いたことがあって、その中に「Ja」というタイトルをつけた詩があったし、詩のデータは残ってないけど、確か、take204までは続いた。
その詩は小野リサの「Sambou Sambou」を聴きながら書いた詩が多くて、曲自体はラテン系の気楽さを心から感じられるいい曲だ。
歌詞としては、サンバばかり踊っている男と、それを支えてサンバばかり踊っているなんてとあきれている女性の女性目線の歌で、歌を聴いてもらえば、そんな感じがするっていうのはよくわかるから、ぜひ聴いてみてほしい。
そんなこんなで、ひさしぶりに詩を書きたくなったから、ちょっと書いてみるけど、今度、フィレンツェに住んだら、もっと陽気に過ごしたいという思いも込みで、即興で書いてみようと思う。
Ja.take205――時間の忘却、水平線のためのボサノヴァ――
夜の海岸通りを歩いていると、遠い街の灯や、真っ暗な江ノ島のシルエットが見える、イタリアにいて、暗さも愛することができる陽気な国だと感じたのに、なぜ彼女から逃げたんだろう、彼女の前で「Night and Day」を歌うように、あれだけ詩やエッセイを、彼女のためだけに書き続けたはずだったはずなのに、時間の例外は許されないくらい、あの女性に似た人だけを愛したのはいつだったか。
時間と
夜の水平線だけを
愛したんじゃないかというその記憶は
確かだったか知らないけど
とある詩人が言っていた
「ダンテは天国でベアトリーチェに会ってから、つまらなくなった」という
あの言葉が気になって
彼女と向き合うことができなかったと彼女に言ったら
彼女はあきれて僕を海辺に呼ぶかもしれない
世の中の悩みはたいていは杞憂だ。
サンバはきっと忘れたい過去を忘れるためにある。サンバを見たいから、ブラジルに行きたいなんて、湘南に骨を埋めたいとか、言ったから言いづらいし、フィレンツェに住みたいのも本当だ。これも彼女には言いづらいけど、両想いじゃない、一方通行同士の恋がこの世にはあるから、僕はたまにはエッセイだけじゃなくて、エッセイにかこつけて、売れないかもしれない陽気な詩を書こうと思ってる。
詩はこれで終わり。
詩は悪く言えば、エゴの発露だけど、それをキレイに見せるのが詩でもある。
文学はもちろん、哲学的な楽しみや恋愛の深みをわかってもらうためにもあるけど、作家や詩人の心を理解してもらうためにもあるのも事実だと僕は思っているから。
いずれはブラジルにも行きたい。
リオデジャネイロのコルコヴァードと、イパネマ海岸にはぜひ行ってみたい。
コルコヴァードを奇跡の丘と呼びたい。
フィレンツェで、コルコヴァードみたいな詩を読みたい。
路上で英語の詩を読んでみたい。
イタリア人にはグリーティングカードによく詩みたいな文章を書いて、送ってくる人が多いそうだ。
僕は今でも好きな女性のためだけのエッセイスト、詩人になりたい思うことと何も関係はないけど、なぜかイタリアに住みたい理由と関係があるような気がしてる。
僕は仁美さんという32歳の時に出会った女性と似た人とまた会って、本気で結婚したいと今もよく思う。
了
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