南野 尚紀
人はなぜ美しいひとを求めるのか。魂も身体も。理由なんかない? それは理由の塊だろう。それと対極に何もない人間の存在理由というは探すのが難しいことが、それを反証してもいる。
Boccacio70というイタリアンシネマを見た。
フェリーニやヴィットーリオ・デ・シーカが、オムニバス映画をそれぞれ監督ごとにまとめて撮って、公開したものだ。
レンツォとルチアという話が、トップに来ていて、はじまり方は、配達員がずっとルチアという若い女性のあとをつけてきていることを知って、敢えて配達員に会いに行くシーンからスタートし、動脈硬化症なんじゃないかというウワサのある一本気のレンツォの父親と、いつもルチアに口うるさくなにかを言って、ルチアの人生をおかしくする母親が登場し、レンツォとルチアは結婚するが、ここまではイタリア映画としては割とありがちな印象を受ける。
ルチアは大企業の事務員の仕事をこなしながら、日曜日、レンツォと会う。
ルチアは会社やプールで執拗に自分をつけ狙ってくる東浩紀似の男性を遠ざけようとするが、うまくいかず、結果、映画でヒゲの吸血鬼を殺す映画を見た後、ふたり、職場でキスをしたのがバレて、「あたしだけ残して、彼をクビにするのはおかしい! だったら、失職者になったって構わない!」というようなことを話して、会社を辞職する。
そのあとは、厳しい生活ながらふたりで慎ましく、暮らし向きをよくしようという映画で終わるが、とてもいい映画だった。
これは金欲のみを追求した巨大資本のプールに、イタリア的な恋愛がのまれるのは困るということでもあるし、別に左翼なんてお首にも出てこないから、左翼映画ではない。
こういった映画を左翼映画というのはお門違いだし、僕は左翼なんて世の中から早く消えてほしいと思う。たとえ、本人がどんな思想を抱えていても、イタリアはいつもロマンスを守ろうとしているし。
そんな姿勢を貫くイタリアンシネマが僕は好きだ。
これからの生活もどうなるかまだわからないのに、華の日曜日にふたり、ディスコでお酒を飲みすぎてしまうシーンなんて、感動ものだ。
ルチアは僕の知り合いのウクライナ人女性の常識人で、目立ちたがり屋な男が好きでない女性にも似てるし、僕の永遠の憧れの女性にも似ているので、見ていて気分が幸せだ。
美しい愛には理由がある。
それは側から見てわからないものだし、美しくない愛にはおそらく理由はない。
これを見た次の日、「運命の結婚をすれば病気は治る」というようなことをプラトンが書いていたと僕が、病院のドクターのCaterinaカテリーナに言ったら、こう聞かれた。
「哲学は美しくものをとらえがちですね。それでも、科学、医学的にものを見る目線も大切です」
僕はスマホのGoogleの翻訳で答えた。
美しくないものはこの世の中に必要ですか?
美しくないものがあなたのようなキレイな人間を信じられないとしたら、それは悪なので、必要ないでしょう?
哲学とはそういうものです。
少なくとも僕はそう思っています。
了
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