南野 尚紀
日本語にも湘南の人がよく使う言葉があるように、英語にもイタリア人がよく使いがちな英語というのがある。
湘南の「去年の」は、アクセントが語頭にあり、通常、日本語にはない、イタリア語の「Tre」のような語感を持っているし、「地元だから行かないんですよね」という湘南で以外、ほとんど言わない表現もある。
私はイタリアにこれから住む予定で、下見のために長く滞在したが、イタリアの英語に関して、わからないことも多い。
しかし、「Japan」のアクセントが語頭にあることが多く、これは「Giappone」のアクセントが語頭にあることと関係があるのだろう。
Sienaシエナの人は、私が「believe」を使うと、「trust」を使うように勧めたし、「destroy」とイタリア語で「右」、「右翼」を表す「destora」と関係があるからか、「destroy」をよく使う。現に、フランチェスコ教皇も死の寸前のXポストで、この言葉を「キリスト教徒が死を破壊してきた」という文章の中で使っていた。
日本語に翻訳した時に意味がわかりづらいが、表面上の意味よりも神学的な意味を重視した結果なのだろう。
Firenzeフィレンツェには、女性、生活を重んじる気風の人が多く、パーティなどで、男性的な話題や観念的なことばかり話していると、料理などの女性的な話題、生活と仕事の話に切り替えられることがよくある。
フィレンツェの言葉は、イタリア語の標準語にいちばん近い。
理由はイタリア語の祖であるDanteダンテが、ラテン語ではなく、イタリア語で文学作品を書いて、世に残したことがきっかけで、書き言葉でもイタリア語を使うことになったことと関係があるのだろう。
言うまでもなく、彼はFiorentinだったからだ。
Danteの「Vita Nuova」には、Firenzeを感じさせる言葉が頻出する。
イタリア人が使いがちなポーランド語があるように、Danteも単に、Firenzeのイタリア語を使ったというだけではなく、Beatriceのよく使うイタリア語を使って、『Vita Nuova』を書いたようだ。
She had been in this world long enough for the heaven of the fixed stars to move a twelfth of a degree to the east.
英語にはなるが、「heaven of the fixed stars of move a twelfth of a degree to the east」という表現が、『Vita Nuova』にはある。
翻訳者Joseph Luzziの解説によると、地球を取り囲んでいる8番目にして、最後から2番目の星を代表していて、Beatriceが8歳と4ヶ月であることと関係があるということだそうだ。
しかし表現のことを考えれば、Danteが、天体の移動による時間の計測のことではなく、天国であるFirenzeから東に12度の位置にある土地と、Beatriceが関係あると言っていることが明らかだ。
Firenzeから東に12度の土地には、いろんな国があるが、ポーランドもある。
ポーランドは北東東にあるが、北という言葉を敢えて使っていないところが、Danteの方角に対するこだわりの表れなのだろう。
正直に言ってしまえば、Fiorentinは東ヨーロッパ人に似ている。
男性はダンディな人が多く、女性は知的な美人が多いし、そういう人が海外からも集まってくる傾向にある。
Firenzeを理解している人ほど、そうなのだろう。
DanteがBeatriceを称賛する際に、「understate」を使っているが、この言葉には、「控えめに言う」という意味がある。
慎ましさはBeatriceの美徳であり、ポーランド人もそうだと言いたいのかもしれない。
I confess that at that point my animal spirit, which dwells in the heart’s most secret chamber, began to tremble so violently that I could feel its pain even in the farthest reaches of my blood.
「Chamber」には、「部屋」、「会議室」、「区画」という意味がある。
天国論の話をすれば、天国には神々の会議があり、地上に派遣された神を助けるために、だれを派遣するかを決定しているらしい。
天国の会議は、Homerホメロスの『Odessayオデュッセイア』にも、描かれている。
このことと、Beatriceとポーランド人には関係があるということをDanteは言いたいのだろうし、魂の告白をするパーティが天国にはあるということも言いたいのだろう。
そうでなければ、他の表現をとっているはずだ。
Even though Love ruled over me through her omnipresent image, which was so pure in essence that it never allowed him to guide me without the sound advice of reason in those matter where it was useful.
彼女の愛の支配を受ければ受けるほど、彼女のイメージが偏在するという「汎神論」ではない、Danteの「汎女神論」なのだろう。
ラテン語には、純粋で、かつ使用可能なエッセンスが含まれていないというDanteのラテン語批判なのだろうし、悲劇は天国にはないということも言いたいだろう。
美学的に優れた愛のルールに支配されることは、ルネサンス、Firenze、ポーランドの理想なのだろうし、天国もそうなのだろう。
Danteは『Vita Nuova』で、「言葉がない」というニュアンスの表現を意識的に使うが、文脈において、Beatriceは作曲家、Danteは作詞家、ミスユニバースと美人コンテストの審査員のような関係を意識しているのは、言うまでもない。
私もイタリア語をマスターしたら、仕事の都合もあり、ポーランドに別荘を買いたいという願望もあり、ポーランド語を勉強する予定なのだけど、イタリア語、ポーランド語との比較が楽しみだ。
実際に、ポーランド人がどんなポーランド語、英語、イタリア語を使うのか、そしてフィレンツェに住むポーランド人のイタリア語もきっとステキなものだろうと類推ができるから、それにも興味があるし。
了