南野 尚紀
アルノ川はフィレンツェ人の憩いの場で、日中はたくさんのフィレンツェ人や観光客がくつろいでいる。
写真を撮る人、ジェラートを食べる人、スマホを見ている人、友達との話に花を咲かせている人、寝ている人、本を読んでいる人。
いろんな人がいるが、僕はあの光景を見て、橋の欄干に座っている人がアルノ川に落ちてしまわないかがいつも心配だ。
もし落ちてしまったら、翌日のフィレンツェの新聞には、「アルノ川に転落の30代女性が救出されるも軽傷」とか記事になったりするんだろうか。
リュックを頭の下に敷いて、寝ている人もよくいるが、寝返りを打ったらそのまま転落してしまうだろう、寝返りを打たないといいなと気が気でない。
フィレンツェには、『The Florentine』という英語話者のためのフィレンツェの雑誌があって、僕もメルマガを登録しているが、そのサイトのエッセイにイギリスから来た若者のライターがアルノ川の街灯の柱に背を持たせかけて、詩を書くことがあると書いていた。
確かに絵になる情景だ。
僕はその人がアルノ川でどんな詩を書くのかは知らないが、その人のエッセイを読む限り、作品には故郷との確執とフィレンツェに馴染めるかどうかという悩みが背景にはあるように思える。
僕もダンテがベアトリーチェと再会したとされている、サンタ・トリニタ橋に立っている電灯の柱に背を持たせかけて、ペンで英語の詩を書いたら、いい詩ができるだろうかとか考えるし、どこか故郷を忘れることのできない彼の気分というのは正直わからないけど、推測はできる。
フィレンツェにも、異邦人が多くいるのだろう。
きっと過去には多くの異邦人が、昼間のアルノ川沿いを歩いて、橋の周辺で楽しく歓談している人々を見て、なぜ私は異邦人なんだろう、地元でも異邦人だったような気がするとか考えたりしたのだろう。
なぜ人が理想の祖国に魂を燃やすのか、きっと三島由紀夫の憂国や理想の日本像というのも、彼にとっての理想の祖国というのが想定されていて、それとの対比として、日本を見ている節はあったはずだ。
フィレンツェはいい。
神話・自然の中に、市民が溶け込んで、悠々自適に日々の生活を送っている。
橋のたもとにいて、楽しく歓談したり、写真を撮ったりしている人々も、この街の伝統に守られて、しあわせな時間を過ごせているし、僕もその中の1人だ。
僕はまだイタリア語が初歩なので、街の人たちが何をしゃべっているのかは、単語の端々しか聞こえない。
今回、撮影した写真の中では、サンタ・トリニタ橋の大理石の像の土台に背中を持たせかけて、あぐらをかいている女性の写真が1番、気に入っている。
もちろん彼女に何かを聞いたわけじゃないからわからないけど、太陽の光を浴びながら移ろいゆく時間を感じているという雰囲気がたまらなく好きだ。
フィレンツェは、歴史・神話・アート・文学などのマクロな視点から見てもいい。
しかし、街に息づく人々の雰囲気を感じながら、街を感じるのもいいし、人々に話を聞いて、この街に住む個人について考えるのも素敵な時間だ。
宇宙全我、梵我一如ではないが、普遍的社会からミクロな個までが、実は繋がっているという感じがこの街にいると感じられてならない。
了








