南野 尚紀
イタリアには、よくアメリカを意識したバルというのがよくあって、入ってみると大抵、1930年代のスウィングジャズが流行した頃のアメリカや、1960年代のヒッピーカルチャー全盛のマリリン・モンローが世界のアメリカのアイコンみたいになってた頃のアメリカをイメージした感じになってることが多い。
トランプ大統領も意識してる古き良きアメリカだ。
オーバーツーリズムは、日本でもよくニュースになってるけど、 Firenzeも観光客に疲れてるんだなっていうのをよく感じるし、世の中のクールすぎる流れに辟易してるっていうムードを感じる。
それと同じくらい強く感じるのが、世界にアピールするために無理をしてるイタリアと、実際のイタリアが全然違うということ、さらには、その中でも表面的なイタリアと、本質的なイタリアがもっと違い、実際、 Firenzeが好きな人にとって、 Firenzeの表層だけ見られるのは不快なことなんだろうなと。
華やかなのは僕も大好きだけど、街によくいる表層だけの人間を見ると、まだフィオレンティーノになったわけでもないのに、「だったら、他の国でいいじゃん」って心から思う。
自然も美しくて、芸術・文学も栄えていて、ハイブランドのブティックもたくさんあるけど、落ち着いている紳士・淑女の上品な街という、単に僕が Firenzeに抱いてる理想というだけでなく、 Firenzeのよさ、ボッティチェリ、ダンテ、ピノッキオなどの伝統のある花が咲き誇っているような優美さをもっと世の中と妥協することなく追求してほしいと心から感じるのだ。
下北沢は都市開発に、半ば成功し、半ば失敗した。
清潔感が以前より出たのはいいことなんだけど、本来の下北沢らしさ、あの演劇とサブカルの街っていうコアな感じが失われたことはもったいない話だ。
ヴィレッジヴァンガードもつまらなくなってしまったし。
個性とも言い換えられるけど、らしさっていうのは大切だ。
その時々で変わるもの、時代のものっていうのも重要だけど、その土地や人に根ざす神話的な部分っていうのは、本来、なによりも優先されるべきだと思う。
トスカーナを舞台にした映画『Il Cicloneイル・チクローネ(サイクロン)』、邦題は「踊れ!トスカーナ」だけど、あの映画は本当に Firenzeのコアを1990年代の空気そのままに表現してる。
田舎町をバイクで走って、女性が住む家に向かって叫んでる感じとか、主人公のレヴァンテが会計士をやりながら純朴に生活を営んでる感じとか、バイク整備屋にエロいポスターが貼ってあるんだけど、それがなんか違うんだよなって感とか、会計の相談に来る80年代風のファッションの女性に辟易しながら、薬剤師の美人の女性に気を惹かれていたけど、ある日、家にスペインダンサーの一団がやってきて、楽しく騒いでたら、ダンサーの美人と仲良くなって、80年代ファッションの女性と結託した挙句、ダンサーの女性と付き合うことに成功して結婚する、あの、運命は必ず引き寄せられると信じさせてくれる、理想の結婚は夢物語じゃないと信じさせてくれるストーリーの引力は、僕が見た映画の中でいちばんだった。
ダンテのベアトリーチェ崇拝とか、ボッティチェリのプリマヴェーラとかに表現されてる、なぜ、そしていかに天上界を類推するっていうことがFirenzeの文化の核でもあり、そういう Firenze信仰がある人が優先される街であってほしいとは心から思う。
世界情勢とか仕事のこともあるから、そうばっかりも言っていられないけど、現実の仕掛ける罠に負けないで、 Firenzeのコアをもっと海外発信する方がいいと僕個人は感じる。
今日はサンタ・トリニタ橋の近くの写真がよかった。
今回のエッセイは、好きな女性に伝えたい寂しさよりも、都市観察がメインになったけど、今年の書き納めとしてはナイスだったと思う。
写真もどうぞ。















了
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