南野 尚紀
フィレンツェの街を歩いていると、その美学や美意識の高さに驚く。
イタリアルネサンスは時代にして、今から約700年前のことだけど、その文化が現代にも受け継がれてるという事実は、文学をやってる僕からするとうれしいことだ。
古代イスラエル、古代ギリシャ、イタリアルネサンス、フランスロマン主義、世紀末ウイーンなど、芸術が隆盛した時代や地域というのは確かにあって、古今東西、快不快、美醜、善悪など、ほとんど共通してる法則を照らし合わせると、その価値の普遍性や高貴さはよくわかるんだけど、現代がそれらの時代に比べて優れてるとすれば、女性に対する意識の高さはあるんだろう。
あのボッティチェリですら、男性も好きだったんじゃないかと推測できる事実はあるらしく、今日、フィレンツェでガイド業をしながら、美術を研究してる千鶴さんからそのことを聞いたけど、それを考えるとダンテの先駆性というのは圧倒的なものがある。
芸術が隆盛し、女性が力を持った時代ですら、男性が優位なのは昔の場合、共通してるけど、ダンテは男色の罪といってゲイを地獄に落としたし、倫理、美学、天国の類推の力を一部の美人が高い水準で持ってたという事実を深く理解して『神曲』を書いたことは、天才である証明そのものなんだろう。
プラトンのイデア論には、大きな謎がある。
僕は『国家』を冒頭しか読んでないので、人から説明で聞いただけだけど、要するに、地下の洞窟で、女性にろうそくで映された影を見せられてる状態は人間としてよくないので、そこから出るべきだという話なんだそうだ。
確かに精神的に未熟なのはよくない。
しかし女性と洞窟にずっといて、一緒に対話したり、遊んだりすることのほうが、精神的な成熟がなされる場合の方が、実際は多いのではないかと僕は思う。
単に大人になれないとか、弱者側の立場から脱却できないのは、女性のため、世の中のために、明らかによくないと思うが、それとは別に、女性らしい美にこだわる女性からは、女性であっても「暗い」とか言って、ほとんどの人が逃げるんだな、卑怯だなとも思う。
ダンテの『新生』には、ダンテを懊悩する窓辺の婦人と出会って、その女性から逃避して、やっぱりベアトリーチェの方が好きだったということで、話が戻るという内容のことが書かれているし、僕も窓辺の婦人よりベアトリーチェの方が魅力的だと思うし、ダンテはベアトリーチェとエレクトラに似てるから、窓辺の婦人が好きなだけだったんだなということは読んでいてよくわかる。
ベアトリーチェと窓辺の婦人の話はいったん、置いておいたとしても、精神美の高貴さっていうことから、なにか理由をつけて逃げて、結果、美学的に優れてないことをやる人って、偉人、一般人に関係なく、たくさんいるというか、ほとんどの人がそうなんだなと思うし、そういう世の中の実態がわかればわかるほど、世の中って基本的に大したことないんだなと思ってしまう。
この話は天国の話などの科学的視点では捉えられないというか、科学が意図的に排除してる視点と関係があるし、世界を形作ってる神と関係があるので、重要なことだ。
精神的な意味でキレイ、つまり罪がない人を攻撃して成り立ってる世の中は本当にどうしようもないと心から思うし、そういう意味でも美人や美学の価値というのは、計り知れないと思う。
僕は仁美さんという女性やZARDの坂井泉水が好きで本当によかった、と思ってる。
高貴な精神美、美しい生活、深い恋愛というのは、至上の価値だし、仁美さんといた時、深い安心感が得られ、高貴な美を共有させてもらえたことは、僕にとって最高の経験だし、この2人には毎日感謝してる。
了
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