南野 尚紀
『女性上位時代(Matriarca 女性のリーダー)』は、1968年に公開されたイタリアンシネマだが、観たところイタリア映画らしくない部分も多く、むしろフランス、スペインの映画を思わせる作品だった。
イタリアンシネマの物事の本質に迫る哲学的姿勢、それがなぜキレイかを追求する美学的姿勢、これらを徹底している部分において、この映画は確かにイタリアらしい。
ファッションセンスの高さ、当時流行のフェティシズム、自由恋愛が進んだことによりはじまる享楽的な性愛、それを基盤とする結婚観はむしろイタリアらしくないが、もしかしたら、当時のイタリア人のフランス、スペイン映画への憧れが、映画にうまく反映され、観る人を魅了する映画にした可能性もある。
『女性上位時代』のヒロインは、退屈と思ってた結婚相手が死亡し、未亡人となったのちに、結婚相手も自分を妻としてしか見ていない、つまり相手は他の人とセックスパーティをするための部屋を作り、性愛を楽しんでいたのだが、それを見た彼女の性欲に火がつく。
職場、パーティ、病院、いろんな場所で、押しに弱そうな好みの男性を選び、セックスを迫り、次々、自分のモノにしていく。
作中では描かれていないが、この映画の教訓の1つは、「恋愛観、結婚観だけでなく、セックスを楽しめない相手と結婚しても、関係が続きづらい」ということなのだろう。
そもそも彼女の態度を見てると、夫をどの程度、恋愛観において好きだったかは怪しく、結婚観、中でも、平穏な生活や経済的な事情のみが合致して、結婚した可能性は十分にある。
都会で生き抜くために、人間の表層だけを見ていては、限界があるし、ネット社会もそれと似たところがあるが、そのための類推は必須であることも、この映画では描かれていて、男性、女性を見た時に、瞬時に性的な好みのイメージが湧く彼女、今では割とふつうのことなのかもしれないが、当時の流行としては、共感を呼ぶものだったはずだ。
この映画はエンターテーメントの側面が強調されて作られているので、おそらく彼女が持っているであろう多面性や背後に隠れている悲劇性にはあまり触れられず、それを敢えて深く踏み込まず、浅い視点から彼女を描いたことは、『女性上位時代』の持つ魅力なのだろう。
ヒロイン役のフランス人女優・Catherine Spaaakの配役は的確で、まるで彼女のために作られた映画なんじゃないかと思うくらいだが、僕は彼女が本を読んだり、食事をしたりしてる時の、考え事に耽ってる顔、そして、なぜ悲しいのか自分でもわからないような泣き顔を見せている時が、ステキだと感じた。
これは都市社会の問題である以上に、ヒロインの問題なのだろう。
気ままでしあわせそうだが、どこか憂鬱で本当は言うに言えない悲しみを抱えてる、といったような。
最後にマンションで結婚相手に馬乗りになって歩く彼女の姿は、とても楽しげだ。
おかしなたとえだが、現代のジョセフィーヌがナポレオン・ボナパルトに馬乗りになって、自分の皇后としての地位をよろこんでいるようなそんな印象まで受けた。
ロマンティックを鮮やかに演じることが、いつの時代も南ヨーロッパの映画の主題だったし、時々そうじゃない映画もあるけど、それはオルタナティブで出てきてるだけで、王道ではない。
ダンテ、アニー・エルノーとはまた違う、ロマンティックのあり方を表現した映画なので、僕は『女性上位時代』が本当に好きだ。
そういえば、過去にこんな恋愛があった、と思わせるようなそんな個人的な思い出も相まって、いい映画だと思ってる。
了
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