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文学的な恋愛、エンタメ的な恋愛――村上春樹、アントニオ・タブッキ、シンボルスカ、ダンテ――

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南野 尚紀 

 恋愛にも文学とエンタメの違いというのはあると思ってて、日本人でよくヨーロッパでは文学とエンタメをわけないっていう人がいるけど、どこから出てきた決めつけなのか、イタリアでは実際に本屋に行くだけで一目でわかるくらい文学とエンタメはわかれてる。
 わけ方をエンタメとしてないだけで、ヤングアダルトとか、見るからに表紙が文学作品じゃなさそうだなっていうのとか、ラブロマンスだけど文学作品ではなく、軽い読み物として書いてるなとかっていうのは、ほとんどだれが見ても違う。
 そういう意味で、恋愛にも文学とエンタメがあると思ってて、村上春樹はエンタメの恋愛を書いてるなと感じる。
 僕はファンクラブをやるくらい村上春樹が好きだけど、恋愛に関しては、女性をお酒で酔わせて、記憶をなくさせてセックスしたらしいこととか、女性を性的に暴行したらしいけど、覚えてないらしいこととか、不倫とか、浮気がよく出てきて、本当に作品に出てる恋愛観が酷いなと思うんだけど、恋愛シーンでも、女性をいかに落とすかみたいな戦略で恋愛をするタイプなんだなっていうの見て取れるし、エッセイにもそういうことをよく書く。
 そうでなくても、描かれてる恋愛が飲み会で騒いで、偶然付き合いましたみたいな学生の恋みたいで、エンタメ的な恋愛観を表現してるなって心の底から僕は思うんだけど、それは女性を軽視してるからなんじゃないのかと思う瞬間がある。
 文学的な恋愛とエンタメ的な恋愛は、女性を大切にいたわってるかどうか、神秘性を女性に見出すかどうか、美学と恋愛を織り交ぜて考えられるかが、大きな違いだと思う。
 村上春樹は哲学をしない。
 もちろん、意味深な比喩や寓話で、人に考える決起を作ることはするけど、論理的に美学や哲学を語ることはない。
 真摯に美学に向き合っているなら、もっと理論的なことを語るだろうし、比喩は特性上、どうしても構造を暴露するのが限界であり、理論には新たに物事を定義する価値創造の力が強くあることからもそう言える。
 結果として、現代社会の構造の暴露だけをするなら、ポンチ絵でもいいわけで、そういう意味で村上春樹の小説には文学としての限界がある。
 もちろん、中間小説としての才能はあるし、構造を描く力や、精神的な谷を抜け出すための癒しの力もあるし、世俗的な視点からの法則性を伝える力は、類を見ないくらい持ってるので、準一流の作家ではあるが、一流ではないと思う。
 これは恋愛観や女性観が、高尚な次元に達してないからなのだろう。
 『ダンス・ダンス・ダンス』には、いろんな人がドアからドアを通り抜けるように、僕の元を過ぎ去っていったとか、離婚相手の女性がぜんぜんステキじゃない男性と結婚したとかって書いてあるけど、要するに、主人公は運命を引き寄せる引力を持ってないし、出会いを待つ側でしかない上に、女性からも手厳しい扱いを受けている。
 僕も過去に恋愛した女性が、まるで僕へのメッセージのように、ぜんぜんステキじゃない男性と結婚したとか、そういう類の話は何回もあったけど、それは僕の魅力がまだ足りてなかったのもあるし、あるいはもっといい女性と結婚しなよっていうメッセージでもあるんだろうとも思う。
 もちろん、単なる勘ぐりでしかないかもしれないけど、どうしても偶然と思えない節があるから、恋愛は神秘的なんだろう。
 それに比べ、アントニオ・タブッキの恋愛は、洒脱で、高貴だ。
 『遠い水平線』にはサラという女性が出てきて、内縁の妻ではあるけど、離婚相手との息子を見ると、結婚するのもと考える主人公の恋愛シーンを展開する。
 余談だけど、僕もローマで似たような経験があった。
 レストランでローマ人女性と2人で食事をしたんだけど、ロマンティックな雰囲気の中、お酒を飲みながら、子供を2人育てていると言っていて、いい女性だったけど、気が合わなそうな子ども2人と同じ家で暮らすのかとか、何か言われるかもなとか思うと、かなりハードルが高いと思ったし、子持ちの女性の再婚はそれだけ大変なのだろう。
 死体を解剖医につなぐ、死体安置所の監視役として、仕事をしている『遠い水平線』の主人公だが、サラは「大学に入り直さないの?」と言ってくれたり、大西洋航路を客船で周りたいと夢を語ったり、ロマンチックで、浮世離れはしてない。
 『インド夜想曲』では、ホテルの部屋に強盗に入った女性と、書かれることのない小説について話して、仲良くなるし、「Forbidden Games(禁じられた遊び)」では、窓辺に立っているマダムに対して、パリの街を歩きながら、あなたのことを思い出しながら、それが果てもない大きな恋愛だったってことを、雲との決闘でしめくくるように描いていて、文学的な恋愛観を描く人だなと感じた。
 ポーランドの詩人・シンボルスカの恋愛観は、本当に神々しい聖性を帯びて文学的だ。
 特に先立たれた夫のために書いたとされる、天国に夫を気遣って電話をかける詩や、パーティで若い女性が来て、夫に電話をかける女性の詩(もしかしたら、天国にいる夫に電話をかけたのかもしれない)は、完璧な文学的な恋愛感の表現である。
 天国まで恋愛の意識がいって、天国と意思疎通をしてるような感覚表現は、神秘的と言わざるを得ないだろう。
 ダンテの恋愛観も、言うまでもなく文学的だ。
 『神曲』では、好きな女性を笑わせるためだけに地獄、煉獄を潜り抜け、天国に行って、ベアトリーチェに冷たくされてしまうし、『新生』では、苦渋をなめた人生だっただろうことは、容易に想像がつく作品を書いているのに、「あえかなる君を見た時、この世のすべてを許そうと思った」と、教会で再会して、目があっただけのベアトリーチェについて語っている。
 このコンテクストの深みが、恋愛の奥義だなと僕は思う。
 凡庸でない恋愛ほど、ああじゃないか、こうじゃないかと考えてしまうものだ。
 しかし文学的な恋愛というのは、人生を生きる意味そのもので、仕事だって、本来好きな人のためにすべきものだと僕は思ってる。
 恋愛というの人生の至上の価値であり、高貴な女性の神秘というのは、他には2つとない最高のものなのだから。
 僕も村上春樹以外のメンバーのような高尚な恋愛観、だけでなく、恋愛と結婚に辿り着きたい。
 なぜなら仁美さんという結婚寸前まで行った女性と、ZARD坂井泉水に捧げるために生きているという自覚があるからだ。

了 

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