南野 尚紀
なぜ人には出会いと別れが待ち受けているのだろう? ずっとそばにいてほしかった人が今でも心にいるのに。それは新しい出会いを形作るための別れだったのだろうか? それでも寂しくはない。今そばにいてくれる人々とこれから出会う人たちは、あの人たちのあの日言えなかった言葉と、あの人たちの存在によって成り立っていて、会うべくして会ったのだから。それでも僕も、ずっとそばにいてくれる人がそろそろほしいから、もう離婚も浮気もしない結婚相手と巡り合って結婚したいし、お互いに変わって、お互いがお互いになりたい自分と相手になれるような理想の結婚を成し遂げたい。
これは昔、出会った僕の友だち、病院の先生、結婚寸前まで行った人に捧げた言葉ではなく、願いが叶うなら結婚したい相手に心の中で本当は捧げたいラブレターの内容なのだけど、こんな哲学的なことをラブレターに書いたら、当然相手にされないだろうから、もし書くことがあったら、もっとこの感情が背景にあるわかりやすい言葉を書いて届けたいと思ってる今日この頃。
出会いの可能性っていうのはなんであるんだろう。
イタリアンシネマ『イタリア式離婚狂想曲』は、もっと結婚したい相手がいたから、その相手を殺害して、次の相手と結婚するって話だけど、もしカトリックの1 LOVEを守りたいんだったら、そんなことはせずに、自分が変わることで、結婚相手を理想の人に変えればいいんじゃないか。
昔のあの人にも、あの人にも似てる彼女。それでも彼女はありのままの固有の彼女でもある。
だから1 LOVEだけど、多面的な人っていうのは、可能性に満ちてておもしろいんだろう。
それが歴史が完遂したように有限になった時、愛はその瞬間のひとつの完成形を迎えるのだろうし、映画の完璧な恋愛のシーンが、今その瞬間で止まってるような感じを受けるのは、歴史の完遂と関係があるだろうとも思う。
古代から、国は国境線を変えて形作られてきた。
イタリアだって、ガリバルディなどによって、イタリア統一がなされるまで、ナポリ共和国とか、フィレンツェ共和国とか、ヴィネツィア共和国とか、いろんな国にわかれていたし、現代の日本でも市町村が統廃合することはある。
たとえ、国境が変わらなかったり、フィレンツェがフィレンツェであり続けたりということがあったとしても、時代に応じて、文化や歴史は絶えず変わるし、それでも歴史が大きな意味を持つ土地は、ずっと変わらないものもあり続けるから、歴史は固定の愛を示しているのだろう。
今変わろうとしてるのは、イスラエルとウクライナだ。
ウクライナとイスラエルが、新しい歴史を刻むための試練が訪れている。
僕の中の歴史や文化もきっとそうなのだろう。
今一瞬の愛が心に呼び込まれる時、どうしても今好きな人と結婚したいという気持ちが抑えられなくて、それでもブレーキをかけないと、という気持ちで、愛を抑えるのに必死だ。
こんないい人、なかなかいないから、どうしても心と言葉がキレイで、考えるだけで心があたたかくなる、もどかしくなる彼女と結婚したいけど、もっと僕が変わる必要はあるのかもしれない。
僕は好きな女性に冷たくしたり、距離を置いたりするのが苦手な情熱家だ。
それでも、勢いあまった情熱は少し損なのだろう。あんまり情熱的に好き好き伝えすぎるのも結果として、ダサく見えて、軽く見られて、相手から好かれることからは遠いからだ。
彼女に導かれている感覚も込みで、彼女が好きだし、彼女を導いてあげたいという愛妻家的な・父性的な感情も込みで、どうしても彼女と結婚したいと今、思っているけど、うまくいくか不安も込みで、彼女のことを考えるだけで幸せだ。
了
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