南野 尚紀
文学フリマには、何回か参加したことがあるんだけど、友人と参加してよかったのは、文学フリマの感想とか、どうやったらもっと読んでもらえるかについて、話せたことだった。
そのことについては、「文学フリマで売れやくする方法――製本についても――」で書いているので、ぜひ読んでほしい。
時間のことも考えると、そんなにたくさん読めないはずの友人が、本を多めに買ってたことを思い出して、「本って読む時間がないってわかってても買っちゃうのって、心が通じ合った証拠なんじゃないか」とか考えたりもしたし、その購買意欲の違いにも驚いた。
「文学フリマで売れやすくする方法――製本についても――」を書いて、めずらしく多くのスキがついたので、文学イベントウェブマガジン「フィレンツェ買い出し紀行」に載せるためにも、もっとみなさんのお役に立てるエッセイを書きたいと思って、これを書くことにした。しかし意外にもその内容が、思いついたきっかけと同じで、どうすれば人に届くかだったのは実に不思議なことだ。
前回は書いた内容は売れやすくするコツであって、「人に届けるというのは、どういうことなのか?」っていうことは問わなかった。
今回は前回よりも、僕が好きな哲学になるから、ちょっとついてけないなって人もいるかもしれないけど、ぜひ最後まで読んでいただきたい。
人に届ける際に、自分の個性や自分の所属(出身はそこまで気にしなくてもいいと思う)は、裏切らない方がいいというのが、僕の考えで、僕の例と、大作家だけど村上春樹の例を取り上げてみようと思う。
僕、南野尚紀の個性としては、やさしい、気遣いをしてるフリだけでひどく自己主張が強い、安心を求めて生きてる、英語だとスラスラジョークが出てくる、恋愛と結婚、あるいはその価値が好き、執筆を14年弱やってきた、小さい文学賞を受賞してる。
もちろん、自己分析になるけどし、「自分で自分のこと、やさしいって書かないだろ」とか、思う人もいるかもしれないけど、本当に自分がそう思うなら、それは素直に書き出してもいいと思う。これは実際に他人から言われたことがないことでも、いいと思う。
所属は、湘南に憧れて住んでて、もっと憧れてるフィレンツェの近くのピサに住む予定、フィレンツェ買い出し紀行と村上春樹のファンクラブサイトを作ってる、不動産オーナーの仕事を休んでる、オーガニックライフを実践してる、ジャズとポップスが好き、大人になりたいという意思があって、下北沢通いをやめ、サブカル男子をずいぶん前に卒業してるとか、栃木県出身とか、男性だけど、男の友だちが今いなくて女性の友人が多いとか(男の友だちはめんどくさいし冷たいから、少数でいいと思ってる)、純粋な日本人だから、イタリアに住む予定で、イタリアについていけるか、合わせたい気持ちはあるけど、合わせられるか少し不安があるなどがある。
所属は客観かどうかよりジャンルにこだわった方が書き出しやすいと思う。
これを言ったら、自慢になるなともし思ったら、修正してもいいけど、文学はそれでもいいと思う。かけがえのない個性を育てるため、伝えるためにあるのが文学だから。
次に村上春樹の例。
個性は、ノーベル文学賞をとってもいいと多くの人から言われるくらいの実力と評価がある、国内外の賞を多数受賞してる、ジョークをいうのが好き、女性に人気がある、文学好きから「村上春樹は浅いとか、かっこつけだ」と言われることがある、心が広い。
所属は、英語が堪能、ギリシャ悲劇とアメリカ文学が大好き、イタリアとギリシャとイギリスとアメリカに住んでたことがある、藤沢市の山奥に住んでる、マラソンを長年続けてる、映画が好き、いろんなジャンルの音楽が好き(特にジャズ)、ウイスキー・ワインなどのお酒が好き、Tシャツが好きで本も出してる、スポーツカーが好き、旅行が好き、父親との確執について本を書いてる、猫が好き。
これを書き出して思うことは、他人の所属については書けるけど、本をたくさん読んでいてても、個性をなかなか書き出せないということfs。
つまり他人が見た時に、言葉にしづらい個性を、所属で表現するということは大切なんだろう。
僕は村上春樹の作品の評論を人物評みたいに書いてるけど、一言で言い表わすが特に難しいということに気がついた。
逆に村上春樹は、「所属について積極的に書いて、人柄や考え方について知ってもらおうとしてる」ということなんだろう。
つまり、届けるっていうことは、所属を意識しながら、個性を表現するということでもあるっていうことになる。
これを書いていて、村上春樹がエッセイとか、ラジオでインドの音楽をぜひ紹介してほしいって思ったけど、そのような隠れた要望に応えるかも重要だ。
自己分析に関しては、イタリアに住む日本人の文学好きの男性というキャラが他にいないので、もっとアピールしてもいいということと、安心を求めてるのに、安心を提供することがたまにしかないということだ。
もうひとつは、村上春樹に比べて、書きたいことばっかり書いてるということで、ここは両方やればいいけど、そんなに浅い問題じゃないと思う。
昔、石原慎太郎が、欧米のオリジナリティについて、話し合いをしてる時に、フリスビーを例に出してて、あれは大きなヒントだと感じた。
「会話は言葉のキャッチボール」とよく言われるけど、文学も同じだということが時にいるが、だれとだれが話してるかという関係性は重要なんだろう。
文学もどんな人にファンになってほしいか、どんな人に捧げたいかが重要なのであって、それが「言葉のキャッチボール」になるとは限らないのだ。
たとえば、自分の言うことを従順に聞いてくれるファンがほしいんだったら、言葉の「フリスビー」にならなきゃおかしい。
フリスビーは言うまでもなく、犬に円盤系のプラスティックであるフリスビーを取ってきてもらう遊びだけど、あれは相手のいる場所とわざと違うところに投げている。
僕がフリスビー式コミュニケーションで思い出したのが、僕がファンのモデル・藤田ニコル、にこるんだ。
僕はにこるんのファンイベントに参加したことがあるんだけど、そこには男性がひとりしかいなかった。
そこで特徴的だったのが、にこるんをまるでコピーしてるみたいに、にこるんの化粧やファッションをマネしてる若い人がほとんどだったことだ。
にこるんがどう思ってるかは、わからないけど、にこるんは従順に自分を崇拝してくれるファンがほしい、人数もとてつなくたくさんいた方がいい、若い人がいいっていう、にこるんの想いが通じた結果なんじゃないかと思いもした。
ものを投げる遊びや競技で言うと、バスケは大きいボールを仲間に渡しながら、ディフェンスに邪魔されつつ、ボールをカゴに入れて、相手にそこから出てきたボールを取って来させて、次はディフェンスをやると言う競技だ。
サッカーはディフェンスに邪魔されながら、大きなんネットにボールを蹴って入れて、その後、審判がそれをピッチの中央に持ってきて再スタートする競技だ。
砲丸投げなんか、声を張り上げながら重い鉄球を投げて、どれだけ遠くに投げられたかを測定し、ファンがよろこんだり、順位を決めたりするスポーツだ。
槍投げなんか、武器を投げてる。でも、ある程度の枠内に入らないと、測定の対象にならない。
僕が書いてるエッセイは、実はサッカーに近いんじゃないかと、今気がついた。
バスケのバスケットほど、狙いが小さくなく、大きなネットの中に入ればいいって考えで、ボールを蹴るからだ。
少しカッコつけすぎな気がするけど、そんな感じもする。
事実、僕が住む予定のイタリアで、いちばん人気なスポーツはサッカーだし。
そうなると、選ばれし11人に届くように、敵の11人のディフェンスをかいくぐって、パスを出す、ゴール、ネットに入れるとファンがよろこぶという中身を哲学的に考えれば、文学は「読者との言葉のキャッチボール」と簡単に言えるほど、浅いことじゃなくなってくる。
これに気づいた今、今後は、僕も僕がやってるのは、「言葉のキャッチボールじゃないんだ、サッカーなんだ」ってことを守りながら文学をやりたいと強く思う。
これでわかってもらえたかはわからないけど、本や言葉の届け方もいろいろあるということで、文学フリマで売れるためには、個性と所属を活かし、どんなファンにどんな届け方をしたいのかが重要だということになる。
なので、みなさんもこれらのことを考えながら、文学フリマで売る本を作ってみてください。
文学が個性を育むものであり続けますように。
了
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