南野 尚紀
「太陽のせい」で人を殺害したのは、カミュの『異邦人』に出てくるムルソーだったけど、僕はそんなことは思いつかない、真夏の太陽は今日も笑顔で燃え盛っていて、それでも、家とコンビニやカフェを行き来したり、時々、海で考え事をする日々にもあきてくると、紀行文が読みたくなる。
英語のレッスンをカフェでやる前に、少し早い時間についたので、茅ヶ崎の駅ビルの本屋に入って、何気なく手に取った村上春樹のエッセイ集『ラオスにいったい何があるというんですか?』は大当たりだったし、文章も初期の作品に比べると、格段にうまいと思った。
もちろん、村上春樹の初期の頃の文章は、もっとみずみずしくて、考え込みがちな学生気分を引きずった、それでも洗練された大人の文章という印象で、それはそれでいいんだけど、2018年に文庫本化されたこの紀行文集は、情熱を持たずには読めないくらい、いい文章で書かれてる。
以前、エッセイでも書いたように彼は、内容はギリシャ悲劇で、文体はアメリカの1930年代前後の小説、ジャズに影響を受けてるのは明らかだけど、今日は文体の面でいい発見もした。
ずいぶん前から気づいていたことも込みで、今回は『ラオスにはいったい何があるというんですか?』に含まれている文章を中心に、引用しながら、彼の日本語の美しさについて述べていこうと思う。
1993年から95年にかけての村上春樹の記憶、そして改めてボストンに住んだ時に書かれたと思わしきこの文章は、色まで鮮明になって情景が浮かんでくる素晴らしいエッセイだ。
夏には並木がこの遊歩道の路面に、くっきりとした涼しい影を落とす。
この文章で素敵だなって思うのは、「くっきりとした涼しい影」という表現で、「涼しい」、「影」という取り合わせはなかなかないが、東海岸にあるボストンにはきっとこんな影が落ちているんだろうと感じた。ボストンは大学が多い。だから当時、学生がこんな樹影を眺めながら、ゆっくりベンチに座って、本を読んだり、女友だちと語り合って、お互いを理解し合ったり、すれ違ったりしたのだろうということを思う。
時には、政治のことや、女性問題について語り合って、男性が悩んだり、女性が理解できなくて、「あーあ、男ってどうしてこう見栄っ張りなの」とか考えたりしたのかもしれない。僕は男女や男性特有の美学、女性特有の美学について、本質論は語ってもいいと思ってるタイプなので、今日、そういう話が日本でできないのは、物足りないというか、恋愛的に不利だなと勝手に感じてる。
僕らを取り囲んでいた深い圧倒的な緑が、少しずつほのかな黄金色に場所を譲っていく。
個人的には、この表現を美学的な意味でロマンティックな表現だと感じる。ジャズ調の文章の中に、ショパンの英雄ポロネーズが聞こえてきそうな文章で、まるでロマン主義の時代に有名になったかの英雄を讃えているかのような、緑から黄金色の木々の葉の推移、情景描写でそれを表しているように見えるその実、大胆な表現は、それでも誇張がなくキレイだ。
そしてランニング用のショートパンツの上にスウェットパンツを重ね着するころになると、枯れ葉が吹きゆく風に舞い、どんぐりがアスファルトを打つ「コーン、コーン」という固く乾いた音が当たりに響きわたる。
僕はこの「コーン、コーン」って音は、聞いたことがないんだけど、聴覚に訴えかけるような書き方で、村上春樹はいつも、英語の文章の基礎である具体的な書き方、specificを明らかに意識してる。
聴覚以外にも、視覚、触覚、味覚などいろんな感覚に訴えやすい表現、特に視覚表現はimaginaryって呼ばれるけど、僕は抽象的な表現が多かったりや話題がすぐに飛んだりするエッセイを書くから、茅ヶ崎のカフェで英語を教えてくれてるTiffanyっていう14才下の女の子に、そのことをよく注意されて、それがいろんな意味で僕の言葉にいい影響を与えてるんだろうと思う。最近、文章がキレイになってきてる気がする。
そしてなによりも、なによりも、ボストンはボストン・マラソンを持っているのだ。
普通なら「ボストンにはボストン・マラソンがあるのだ」とか、「ボストンのよいところは、ボストン・マラソンがあるところだ」とか書きそうだけど、「持っているのだ」は勇気のある表現。
英語では、「Boston has Boston marathon」になりそうだけど、日本語にはない表現なので、おそらく英語のセンテンスを思い浮かべて書いた文章だろうと想像がつく。
哲学的な意味を持たせたかったとしても、「持っている」にする必要はないからだ。
それにしても、このフックのある哲学的フレーズと、その後に続く説明は、結論を先に言う英語のらしい表現なので、村上春樹はそれが染みついているんだろうと思う。
3月になってようやく固い雪が解け、そのあとの嫌なぬかるみも乾いて、人々が厚いコートを脱ぎ、チャールズ河岸に繰り出すころに(河岸に桜が咲き始めるのはもっと先だ。この町では桜は5月に咲く)、「さてそろそろお膳立ても整ったし……」という感じでボストン・マラソンはめぐってくる。
まるでボストン・マラソンが人間になって、寝てた状態から、身体を起こして、上から見下ろしているような表現だ。
擬人化はよく使われる表現手法だけど、マラソンをこんな形で擬人化させた上で、あたかもしゃべってるような、しかもなごむような、心躍るような表現は他には見たことない。
「ふん、たかがマラソン・レースに決意された概念なんて持たれてたまるものか」とあなたおっしゃるかもしれない。
なんだか、東ヨーロッパの絵本とかスヌーピーとかに出てきそうな表現が、流れの中で自然に出てきていて、素直にいいなと感じる。
「Why do I write it?」のような、なぜの問いかけを足すだけで、読者目線に立っている感じが出て読みやすくなるが、それを絵本調、スヌーピー調で書いてるのが親みやすい。
これを読むと、魔女に姿を変えられてしまった東ヨーロッパの美女が、疑心暗鬼になって世の中を見てるのを見て、それを村上春樹みたいなイケおじがやさしく解いてあげようとしてるっていうストーリーを想像する。
僕なんかはすごくキレイな情景だなって思う。
とにかく僕は今でもそれらの道中の光景を、頭から順番に「ああなって、こうなって、あそこにあれがあって、ここにこれがあって」と思い出すことができる。
カッコ書きの部分が、「シュビドゥバ」に代表されるジャズのスキャットみたいで、読んでて安心する。まるで海の波に寄せては返されてる中、浮き輪でぼーっと浮いてるみたいに心地いい。
本は余裕がある人も読むけど、精神的なカギを探してるがゆえに、余裕がないから読む場合もあるし、そもそも現代人は忙しい。
だからっていうのもあるけど、やっぱり安心するというのは得難いよろこびで、心を深く安心させる言葉を与えるって人は素敵だなって感じる。
ざぁっと、こんな感じだ。
イタリアに行って思ったことはいろいろあったけど、イタリアは、Thinking about feelingなんだなっていうのは大きい。
だれかにそう言われたわけじゃないけど、イタリアに着いた途端、「感じたことについて考える」が、「美人はいい」くらい当たり前のことだってことを感じた。
村上春樹の文章が洗練されてるのは、これが大きく前提になってるからなんだろう。
シュビドゥバで思い出したけど、イタリア語をしゃべってると歌ってるみたいな感じがする。というか、不自然にならない程度に歌うようにしゃべると、相手の表情もやわらぐことが多い。
僕のエッセイはかなり観念的でそれが売りなんだけど、それを崩さない程度に、歌いように書けたらなぁって思うし、シュビドゥバじゃないけど、リズムを取って歌うような日本語って僕は美しいなって心から思う。
了
村上春樹 『ラオスにいったい何があるというんですか?』 文春文庫
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