南野 尚紀
1.イントロデュース
湘南T-SITEっていう本屋で偶然手に取った、ポーランドのノーベル賞作家、オルガ・トカルチュクが、これまでほとんど読んだことがないくらい素晴らしい作品を書いていたので、うれしかった。
それは『優しい語り手』という本で、彼女が講演会で話したことをエッセイにしたものだけど、ダンテ、スペインの作家イレーネ・バリェッホと同じくらい優れた作家だと感じる。
第1章「優しい語り手」に書かれている内容は、だいたいの内容を話すと、物語の語りと構造、世界が一般的に現代で語られているのとは、まったく別の構成の仕方がされているということ、優しいということの価値、そして、文学は私以外の存在のまなざしに支えられてるということ、個人の本当のあり方、新しい語りの可能性についてで、そのことがこの頃、僕がイタリア旅行から帰ってきて、思いついたことと似ていることに驚いた。
今回はエッセイなので、あらすじみたいなものは書けないが、内容は読んでからのお楽しみということで、僕がこの本の一部を引用しながら、どんなことを考えたかを書くことにする。
作者紹介についても、あまり情報がないので、ネットで調べていただけるとうれしい。
現実は思っているよりも豊かだ。その豊かさを自分の身を引き起こすのは、深い恋愛と、恋愛の美学であり、世界との有機的な関わり方なのだろう。
これは、オルガ・トカルチュクがエッセイの中で、大切な恋人について書いた際に残したアフォリズムの引用、ではなく僕が今、書いた言葉だ。
そんな冗談も交えたけど、オルガ・トカルチュクは頭がよく、優しい作家なので、ぜひ最後までどうぞ。
2.本論
本来なら、エッセイのすべての文章を引用したいくらいだけど、アフォリズムと僕の解釈だけで、文脈を推測しながら、いろいろ想像して、『優しい語り手』を読んでいただくのもいいかなぁと考えた。
なぜなら、人生でも、他人のすべてを理解することはまずできないし、どんなに見識や認識が優れている人間でも、すべてを知るというのは不可能なはずだからだ。
それは世界についての物語を、わたしたちが影響を及ぼしえない英雄や神々の御業の場から、わたしたち個人の歴史へと創りなおし、まさにわたしたち自身のような人間に、舞台を譲り渡したのですから。
これに関しては、僕も同意だ。
存在の表現というのは、選ばれし人々、存在について考え続け、それだけでなく、世の中のために尽くした、魂の美を高いレベルまで持っていった人にだけ許されることで、本来は、ふつうの人間にはそれは許されていなかったのだから。
実際、古代や中世は、偉人や偉人の恋人・奥さん、宗教者、学者、もしくは、その人々の信奉者しか書物を出せなかったし、その他の場合は、基本的に後世には残っていない。
民話などの形で残っているものもあるけど、たいていは、偉大な力に触れたことなどが書かれている。
現代でも、売れる、売れないに関わらず、本当に後世に残る本というのは、偉人か学者と深い関係がある本だと僕は推測するし、実際、高いレベルで普遍性か、普遍性と個性がうまくブレンドした作品以外は残らないと思う。
当たり前のことで、時代が大きく変わると、なにを言っているかわからなくなるものは、普遍性がなさすぎて、読者が読みたい気分にならなくなるからだ。
イタリアのエッセイスト・詩人、ダンテは、個性を重んじつつ、伝統を愛した作家と言われる。
『神曲 天国編』で、一般人で好きな女性だったベアトリーチェを、天国で神と同じく並べてほめてるのは、そのわかりやすい事実だろう。
一般の人で良識ある人が、自分たちを支えてくれてるという意識から、偉人や学者に関係のない人を尊重した英雄やダンテには感謝だ。
そういうわけで文学は、経験と交換の場、それぞれが自分だけの運命を語ったり、自分のアルターエゴに声を与えたり、アゴラになりました。
これは、「文学は感情移入して読まれるために、作者と読者の心の交流が深くできる」という文脈で書かれてる。
アルターエゴは、「もうひとりの自分」という意味。もうひとつのペンネームを使ったり、SNSを違う名前で、普段とは違う自分を演じるようにやったりすることは、アルターエゴと関係がある。
アゴラはギリシャ語で、「会議」という意味だ。
アルターエゴに関しては、自分の人格がわかれてるという意識が僕にはないので、使わないし、仕事の時と、部屋にいる時と、外に出る時と、友達に会ってる時など、自然な感じで違うとは思うが、分離してるとは思わない。
「一人称が、『俺』なのか、『僕』なのか、『私』なのか、『自分』なのか、どうすればいいのかわからない時がある」。
大学の文学が好きな友だちがそう言ってたことがあった。
一人称は、英語なら「I」だし、中国語でも地方言語以外では、「我(ウォー)」だし、イタリア語でも「Io」だ。
しかし、イタリア語は不思議で、「lei(レイ)」とか「tu(トゥ)」とか、二人称がわかれているし、物を表す一般名詞も、「scrittore(スクリットーレ)」、「scrittoce(スクリットーチェ)」と男性名詞、女性名詞でわかれるし、男性が「うらやましい」という時、「Beato te(ベアトーテ)」となるし、女性が同じことを言う時は、「Beata te」(ベアターテ)となるし、自分の性認識があいまい人とか、クィアの人とか、「n個の性」っていう性の認識が複雑な人(たいていの人は、自分の生物学的な性を受け入れてるし、アルターエゴを使う人と同じで女性が多い)はどうしてるんだろう、どう考えてるんだろうって思う。
容姿、性格、両方で、伝統的な女性の美しさ、女性に特有、女性がそうすると美しいとイタリアでされがちな美に僕は関心があるので、その素晴らしさを伝えたいんだけど、どうすれば、その美しさの真の質の高さを理解してもらうにはどうすればいいんだろうとも思うし。
「n個の性」は性が未分化な状態を示すので、未熟だから、大人としては、美しくないとは思うが、実際、そう言う表現をよくすると言われている作家の水沢なおさんは、女性らしい美を持ってたし、話してて楽しかった。
年下とは思えないくらい水沢さんはすごく大人っぽい人だし、彼女の作品に見て取れる、大人の視点から、子どもの要素の中にある懐かしさとかを時々、思い返して、安心するのは悪くないとは思う。
今の時代、偉人や学者や美人が、いかに古代からマイノリティとされてきたジャンルを認め、それがなぜなのか、そして、偉人や美人がしあわせで偉大な生活を送れるようにするためには、どうすればいいかを問うことは問題なんだろう。
今回のエッセイは、言葉や水沢さんの話に時間を割いたので、次回の続編で、他の引用について触れてみることにする。
ちなみに、「n個の性」について触れたのは、勢いからだったけど、「私」より、「俺」の方が男性的で自己主張が強いニュアンスが一般にもあるし、「自分」は謙遜のニュアンスがあるが、文脈や場合によっては使いづらいこともあることが関係してる。
それにしても、オルガ・トカルチュクは僕の中でベスト5には入る作家だし、本当に東ヨーロッパの作家は頭がいいと思う。
人種差別はあまりよくないけど、その人がその在り方、その国、その性で存在したことは、存在論と関係があるし、もちろん歴史的な共通点を人の中に探すのはいいことだ。そう考えると、「n個の性」は、ある程度認められてても、生物学的な性を受け入れてないってことで、存在論から離れるから、マイノリティーであり続けるのかもしれない。
3.参考文献
オルガ・トカルチュク 『優しい語り手』 岩波書店
了
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