南野 尚紀
僕がピサに住もうと思ってる理由は、海が好きだからで、フィレンツェはいい場所だけど、あたたかい場所で波や水の力を感じられるのは、やっぱり海があるピサだからだ。
今、住んでる湘南はサーファーがたくさんいるけど、アーティストのLeyonaがサーファーをやってるってラジオで聞いて、僕もサーフィンをやりたいっていう思いから、ビッグウェーブが来る法則について調べたいって思い、今日、ネットで調べて、あることに気がついた。
調べたいと思った理由は他にもあって、偉大なアーティストや美人も時代の波とともに到来してるし、表現上の時代の波と、海に来るウェーブは関係があるのかということも気になったからだし、どうせサーフィンやるなら、ウェーブが来る法則は知っておいた方がいいって思ったということもある。
海の波は月の引力と関係あり、その波はだいたい、沖から陸に向けてできるが、その波が強い逆風に当たると、ビッグウェーブが起きやすいそうだ。
風は気圧が関係してる。
気圧は空気を押す強さが関係していて、押す力が強い空気が弱い空気を押し、その力が強いほどその場所の気圧は高いということになる。
気圧の強さは、空気が地球に引っ張られる力と関係があるそうで、空気は冷たくなるほど、重くなり、気圧が低くなるし、逆にあたたかくて、軽いほど、気圧は高くなるのだとか。
要するに軽くて、あたたかい空気の方が、冷たくて重たい空気よりも、気圧が高く、引っ張られる力が強いし、重い空気を押す力が強いそうだ。
なので、風は比較的冷たくて重い空気が集まってる、低気圧の場所に起こる。その理由はあたたかくて軽い空気が、低気圧とされる冷たくて重い空気がたくさんのある方に流れ込んでくからだ。
これは暗黒期を抜け出して訪れたルネサンスの文化の波や、ソ連崩壊後の90年代の文化的な波や、その法則や軽さが共通してる気がする。
空気の重さは、立方あたりの原子の量、つまり密度と関係があり、太陽の光を受けてあたたかくなるほど、原子は動き出し、原子のつながり方が変わり、分子間での原子のつながり方に距離ができやすくなるので、空気は密度が下がって軽くなるそうだ。
単純な話だけど、太陽の光は太陽との距離が近かったり、遮蔽物がなかったりするほど、明るく見えるし、影響力が強くなって、固体は液体に、液体は気体になり、軽くなる。
話は変わるが、カエルやヘビなどの爬虫類はあたたかくて、水などの液体が多い、湿度が割合高い場所ほど生息していて、コブラヘビなど、砂漠でも平気なヘビもいるが、基本はあたたかくて、湿度の高い場所に生息しやすい。
カエルやカメレオンの目は不思議で、止まってるものが見えなくて、動いてるものもゆっくり見えるのだとか。
だからカメレオンは、ハエなど早く飛んでて、人間が捕まえづらいものも、長くて伸びる舌を使って捕まえられるのだとよく説明される。
まとめて言えば、カエルやカメレオンには、人間に見えてるものが見えなくて、早い動きのものがゆっくり動いて見えているということだ。
子犬やネコなどの小動物も、心臓の鼓動が速いためか、時間の感じ方が早いらしく、それが寿命と大きく関係してると聞いたこともある。
これは、動物や個体によって、構成してる原子やそのつながり方が違うから、時間の感じ方が違い、それが実は、時間が同じ空間にあっても別次元の時間があることを示していて、時間の捉え方というのは、個体の魂の質量と関係があること、そして動物の種類や、人間のタイプによっても、時間の捉え方、魂の質量が違うということなんじゃないかって僕は思う。
なぜかといえば、単に物理的なことだけなら、体重の重さなどと、時間の捉え方がぜんぶ直結してないとおかしいからだ。
魂の質量と、その人が使う言葉とか容姿とかを含む、すべての表現の性質は関係がある気がしていて、言葉ほど抽象的で、具体的じゃないから、イメージとして、凝固してなくて、軽いというように捉えることができる。
一般に、ある程度、どんな言語でも、書き言葉ほど重々しくて、話し言葉ほど軽いし、プラトンのエッセイが、軽く明るく感じられるのは、石板に文字を彫って、言葉を残すこと、凝固させ、固定させることをよくないとしてたことと関係があるんだろう。
ダンテも『俗語論』というエッセイを書いたくらいで、ラテン語よりも俗で、歴史が新しく、軽いとされるイタリア語を使って、はじめて文章作品を残した人と言われている。
つまり、話し言葉でしか使われなかった言葉を、文学作品で使って作品を残した、はじめての人ということだ。
ダンテが生きていたのは、イタリアの暗黒時代から初期ルネサンス、というか、ダンテがルネサンスを起こした発起人とされるくらいだが、影響力は広くなく、本格的に認められるのは、恋愛賛美、騎士道精神の賛美、民族意識の発揚の時代だったととされるロマン主義の時代だそうだ。
ちなみにイタリア語は、フランス語やスペイン語と同じく、ロマンス語とされていて、長編小説や恋愛小説を「Romanロマン」とフランス語では呼ぶし、「Romanzo ロマンゾォ」とイタリア語では呼ぶ。
そういえば、ロマン主義の立役者であるナポレオン・ボナパルトの名言に、「それにしても、私の人生はなんと偉大なロマンであろうか!」という名言があった。
これは大まかな話だが、小説は、現実を地に足のついた方向性が下とし、物語が盛り上がり、現実っぽくなくなっていく方向性が上だとすると、下から上に山なりに上がって、また下に下がるという法則がある。
具体的には、主人公が旅に出たり、大きな出来事が起きたり、仕事や恋愛などに熱中したりすることで、起伏が作られ、物語はピークに近くなっていく構造になり、その展開の推進力は小説の熱量とも呼べそうだ。
これは物語の研究者も本で書いてることだが、ダンテの『神曲』は、地獄、煉獄、天国と、上り坂のようにどんどん上に上がってくシステムになっていて、天国編は抽象的な話ばかりしているし、観念論の代表者・プラトンのことも書いてる。
僕は天国編が最高だと思ってるんだけど、ベアトリーチェっていう女性に、ダンテが愛の言葉を彼女に告げると、泉のように冷たくそっぽ向かれたというような表現が出てくるが、これが離別ではなく、抽象的な結婚だとされることが多い。
エッセイは帰納法と呼ばれる、具体から抽象へ、現実から観念へ展開されるものと、演繹法とされる観念から現実へ、抽象から具体へと展開されるもののふたつがある。
小説や詩もこれに大別できるが、小説は放物線状の山なりになるため、スタートが具体になりやすく帰納法ということになりすいし、そうでない演繹法を取るものは、エッセイ的、哲学的なものが多い。
つまり、エッセイの本質は演繹法なのだ。
ダンテも現実の話からはじまる。
35歳の男が、森に迷い、丘で悪徳の猛獣を見た後、雷に打たれて地獄に行き、煉獄を経て、天国に行く。
単に帰納法ではないが、地上から地面の下にある地獄を深く潜っていき、途中で、アケローンの川、三途の川みたいなものだが、それを渡り、地上にあるイスラエルの上にあるとされる煉獄に行き、さらに上の天国にのぼる。
つまり、単にまっすぐな上り坂のように地獄、煉獄、天国と登っていくっていう構造にはなってないので、『神曲』はそういう複雑な形になってるということだ。
喜劇っていうのは、そういう構造をとりやすいのかもしれない。
僕の大好きなイタリアのラブコメディシネマ『踊れ! トスカーナ Il ciclone』は日本では、「台風」と意味になるが、あれもよく考えるとそういう構造をとっている。
会計士の男性が2人の女友だちと話すシーンからはじまり、いろんな人に邪魔されたり、結婚願望よりも性欲が強いんじゃないかって人と関わったり、その後、トスカーナの田舎をバイクで走り、フラメンコダンサーの集団が家に来て、その中の女性と知り合い、女友だち2人とパーティに参加し、結果として、女友だちの1人がパーティを台無しにするし、おしゃべりと狩が好きな男性とフラメンコダンサーの彼が好きな女性がずっとしゃべってるけど、最終的に、その男性に彼女を紹介され、付き合い、キスし、結婚して、トスカーナの田舎をバイクで走るシーンに戻るという内容の映画だが、まさに同じ構造だ。
小説の放物線的でもあるが、ダンテの『神曲』に盛り上がり方が似てる。
ちなみに彼は、大胆な80年代によくいたようないけ図々しい感じの女友だちと、ヘビ顔の薬剤師と女友だちがほんとに好きだった感じだが、ダンテがほんとに好きなベアトリーチェと結婚しないように、彼も女友だちではなく、フラメンコダンサーと結婚した。
エッセイはそもそも本人が語り手と同一人物っていう前提で書くので、語りに近いし、具体的なストーリーを書くわけではないので観念的だし、現実っぽい観念から具体的な話に、そしていきなり、観念に飛び、観念のクライマックスを迎え、観念的な語りの現実の話に少し戻るっていうものは確かに多い。
『神曲』はダンテがつけたタイトルではないが、ダンテの『神曲』に出てくる言葉からとって、後世の人が『La divina commedia 神聖な喜劇』とつけた。
恋愛小説のロマンは「ローマ人の」という意味で、ラテン系の東ヨーロッパの国・ルーマニアも、ラテン語で「ローマ人の土地」っていう意味があるらしい。
つまり、ダンテが好きだったのは、恋愛エッセイであり、天国編はほとんど哲学エッセイだし、物語調の散文っぽい詩だが、そもそも語り手が自分だ。
だから、喜劇の主人公が自分だし、詩だとしていて、最後はほとんど自分の哲学を書くエッセイに変えているので、「詩よりエッセイの方がおもしろいから、エッセイを書いたり読んだりしよう」って言ってる感じがするし、実際、ダンテはエッセイばかり書いてた。
恋愛詩も恋愛小説もフィクションだから、自分の恋愛哲学だっていう体では書けないけど、エッセイは自分のことっていうこととして書けるので、観念的でありながら、現実に寄り添った個性の表現になりやすい。
もし運命の人と出会うための恋愛の哲学を表したものが、好きな女性の彫刻ばかり彫っていて、運命の女性に会ったとされるピュグマリオンのように、理想を現実に近づけるもので、文学のもっとも大切な要素だとしたら、ダンテがこだわってた恋愛喜劇のような哲学エッセイは、最高の文学なんだろう。
もしそうでなくても、ロマンティックな恋愛と結婚は、人生でいちばん美しいものだと、ダンテは伝えたかったんだろうし、僕自身もそうだから、それを伝えつつ、僕も2人の最愛の女性ではない、3番目に結婚したい女性とのロマンティックな結婚を成し遂げたい。
了
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