南野 尚紀
芸術の中でも、映画や音楽は時間芸術だけど、文学は時間芸術じゃないって聞いたことがある。
理由は分かりやすくて、映画も音楽もはじまった以上、再生ボタンを止めて、ストップさせないとストップさせられないけど、文学はそもそも読み手が読もうとしない限り、スタートしないし、読むのをやめないとストップしないからだそうだ。
エッセイ「時間の翼――観念の翼はなぜ甘美なのか――」で、ジャズアーティストは、即興演奏だから、今その瞬間の表現に賭けてる人が多いって書いたけど、文学はそうじゃないのかっていうのは疑問だ。
時間の進行に左右されすぎないけど、文学は書き手の筆の走らせ方とか、文章の流し方次第で、読み手の時間をコントロールできてしまう部分もあるし、それは書いた人と関わりのある土地とも関係がある気がする。
僕はフィレンツェや湘南は時間の流れがゆっくりな感じがするけど、ニューヨークは時間の流れが早いとよく表現されるのは、多分、単なる比喩じゃないんだろう。
もしそれが実際にそうだとすれば、その土地の人々の思考のスピードや、動きや、流れと時間は関係があるということになるかもしれない。
科学の世界では、時間は光の速度と関係があり、人間が光のスピードに近いくらい早く動けば、目に見えるものだけじゃなく、時間そのものがゆっくりになるらしい。
光の速度は、1秒で地球を7周半できるくらい速いそうだから、到底無理な話なんだろうけど、計算上は速い乗り物に乗ってる時は、動いてない時に比べて、時間がゆっくりになってることになる。
思考の速度もそれと関係があるのだろうか?
そもそも人間の思考のほとんどは、言葉が司っているというけど、イメージを一瞬で想像した方が言葉で考えるよりも、結論が早いことがある。
つまり、科学の世界で言われていることと、さっき話したことは、イメージ的なことにしかよらないから、観念的な言葉と光の関係については言及してないことになるけど、実際はそうじゃない気がする。
もしかしたら時間を重く止めるのが、言葉なのかもしれない。
いつの時代もいい瞬間をずっとこのままにしておきたいと思う人はいるし、永遠というのは、歴史が完遂されたかのように見えた一瞬だという人もいる。
映画でキレイなキスシーンほど、止まったように見えるのは気のせいじゃない気がするし、ZARD・坂井泉水も、「昔みたいに 話が途切れたら キスして」って歌ってたけど、時間が止まることと、重い言葉、恋愛の言葉は関係があるんだろう。
むしろ、人と人が理解し合おうとする意味が重い言葉と意味が重い言葉のあいだに、時間の重みがあって、それが永遠を作るのかもしれない。
文学の言葉が重いとすれば、それよりも重いのはあの日言えなかった言葉だっても言える。
人と人が理解し合えないとか、理解し合えるわけないから、する必要がないし、理解した気になってるだけだという人がいるけど、存在が重い人には、数人だけほんとに理解し合える人がいて、それを理解し合えた瞬間が、時間が止まった瞬間なんだろう。
つまり、土地と理解と時間と言葉は、関係があることになる。
それは決して、多くの人が同じ本を読んだ時に分泌される脳内物質だけの話ではない。
それにしても、なぜ恋愛の言葉は意味を持って、時間を止めるのか。
永遠に続くわけないかもしれない永遠を、感情などによって、他の人の心にも宿そうとするロマンがそうさせるかのか、深くはわからない。
了
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