南野 一紀
僕は美人が好きで、美人を崇拝しているがゆえに、自由を嫌悪し、自由の信奉者を心から蔑視しているということを先日、エッセイに書いたけど、それはZARDの坂井泉水が、天女と見紛う容姿の美、それよりなにより、時間の哲学の極致をいく精神の美を兼ね備えた絶世の美人であるにも関わらず、世の人々や有識者の真の理解を得ないまま、不遇の死を遂げたことが悔やまれてならないからで、僕のすべては彼女のみならず、彼女と瓜二つであるところのボッティチェリの絵画『ヴィーナスの誕生』に描かれたヴィーナスそのものにも、その源泉があり、古代ギリシャの女神である彼女は、親族間の怨恨が呼び起こした、あさましい悲劇の惨状の末に誕生した美人とされていて、絵画の中でも季節と時間を司る女神・プリマヴェーラにより、赤いマントを被せられようとされることによって、裸体が覆われる瞬間が画布に収められていて、人格の崇高さからすれば、かの王女であるべきだった人・坂井泉水も歌詞に書いて歌っていた「裸の心」こそは彼女の魅力の核心のひとつであり、美人の裸、そんなもんはいうまでもなくみんながこぞって見たがるもんだが、精神美の極致をいった女性の裸の心なんていうのはそれもまただれだって見たいし、美人の歴史や歴史観、彼女の持つ美学、つまり物事の美質を判断する価値基準とはなんなのか、彼女そのものが持つ美はなぜ美なのか、つまり彼女はなぜ美しいのかというその美質を問うことが美学である以上、僕はそれを生涯を賭けて追い求めたいし、その結果を残したいという情熱と観念に突き動かされて生きているだけでなく、紀元前一〇〇〇年前からずっとそうだが、今世もその愛と思想に従順になり、人生の大海の真っ只中で、仕事と論争に明け暮れた挙句に死んでいきたい。
彼女の美質がなんであるかを問い、答えを出すのは容易ではなく、突然そのテーゼから入るのも難しいから、僕が人生の途上どうやって、彼女についての美学が高まるごとに超自然的な現象、つまり神からの叱責を喰らうようになったにもかかわらず、それに耐え、人間関係をいかなる考え方において、やり抜いてきたかについて述べてみようと思う。
中世ヨーロッパで流行した騎士道というものがあるが、その精神たるや高貴であり、勉強不足が祟ったせいで、その全貌を熟知しているということもないが、騎士道精神の美徳のひとつは君主に忠誠を誓い従順に仕えるというものであり、つまり紳士だということそのまんまだから、恋愛にだって、いくらでも応用が効くものなんけど、ロマン主義時代にヨーロッパで包囲網をはられまくった挙句、暴れまくったあの大馬鹿野郎の恋愛喜劇、日本でいうところのラブコメマンガだが、それを最後にして、恋愛における真の忠誠心を女性に誓うということの価値は一気に廃れてしまった。
そんな意味でも僕は、スペイン文学の名作『ドン・キホーテ』よろしく、いや、ドン・キホーテなんか目じゃないぜ、そんなレベルを乗り越えて、美人に忠誠を誓うという意味にことかけては、時代錯誤もはなはだしい騎士道精神をいまだに、それを絶対認めたことのない国において継続してるという、これだけが紀元前一〇〇〇年前から、三日坊主で仕方ない僕が、唯一、つづけらたれたことだから、必然、彼女に対する信仰心が低いものから序列をつけて積極的に蔑視するようにしている。
彼女に対する信仰心が低い人間の特徴は数多あるけど、そのひとつは、英雄精神や美学における議論の次元の低さがあるように思われるし、それらがなんなのかということを問いはじめると、必然、経営者が人生を賭けて守り抜きたいと考えるものの史上である理念、それは社格を向上させるためにもあるのだけど、それと同じように、英雄精神や美学のなんたるかという問いも、自己定義、そして他者や物への定義が必要になるから、この定義の次元が低いと、それらは命題根本から、熟すことなく死んでいくことにならざるを得ない。
自己定義は、ダンテの『神曲』の大きなテーマのひとつであるとされるが、彼の素晴らしいところは、美人を笑わせるために三十五歳の時分、森の近くの丘で嫉妬に猛る猛獣を見た末、雷に打たれ地獄に落ち、悪党を見て我が振り直し、煉獄で耐え精神修業、天国において選ばれし魂たちと、個性で以って美人を崇拝するという最高の結論に辿り着く叙事詩なのだけど、その独自性たるやすさまじいかな、自己定義や他人への定義が、世俗でいわれるカテゴリーの基準、言語に内在する磁場、他人の定義を鵜呑みしているようすがないどころか、そういったものに服従している人間を蔑視しているようにすら感じられるほど、強烈なこだわりが見てとれ、彼、ではなく、彼の中のベアトリーチェが定義の基準になっているところがいいのはいうまでもない。
僕は他人の考える、瑣末な物事についての定義はどうでもいいから勝手にしやがれ、そんなのは気にしないで仕事するけど、美人やその代表であるヴィーナス≒坂井泉水に関連する観念の定義が、下賤だったり、世俗の定義を鵜呑みにしたものであったりする場合、飲みの席であってもなんでも、果敢に決闘を挑むかのごとく、その人間を積極的に蔑視するし、そうでもしない限り、絶対信仰なんて成り立つわけもないからそうするんだけど、たとえ、仕事であっても、いや、理念を史上とすべき仕事であるからこそ、定義の低さが笑えるようなものでない限り、矮小化を目的とした定義とは戦わざるを得ない。
なぜ、僕は日本人で宇都宮市に育ったのだろうと考えたことが人生の途上あった。
だがそれも最近、自分の中で明確になってきて、隷属性が最も強固な地域、言い換えれば、隷属性を鍛える道場のような場所で、隷属性や従順さに磨きをかけた挙句、その対象の変更を確定し、絶対化した上で、対象であるところの美人の代表≒ヴィーナス≒坂井泉水を崇拝し、その愛と思想を、できる限り大きく世界に流布させることこそが、人生の使命であるというのが、熟考の末の結論だ。
中上健次も一人の男性をモデルに生涯を賭けて作品を書き続けたし、家族などの出身において非常な悲劇を背負った人だったが、彼のことを考えると、彼女のことがまた思い浮かぶし、僕のすべてが彼女のためだと思うと、燃え上がるものが胸の中に熱く胎動するのをひしひしと感じる。
プリマヴェーラの話に戻るけど、季節と時間の女神である彼女と同じく、世間であまりこのことに触れている人を見たことがないが、その実坂井泉水は、時間に対する目線が鋭かったし、議論も成熟していた。
本物のファンのあいだにおいて、作品の持つ存在の悲劇性の表現の濃さゆえに、最高傑作されているセカンドアルバム『もう探さない』があるが、これの最後に、「いつかは…」という曲が入っている。
この歌、「どんなに時を縛ってもほどける あとどれくらい生きられるのか いつかは情熱も記憶の底へ 愛し合う二人も セピアに変わる」という歌詞を含んでいるもので、この部分がもっとも白眉なのだけど、「どんなに時を縛ってもほどける」とは、単に過ぎ去る時間を繋ぎ止めておき、若いままでいられるか、若い時点で短命な人生であると自分の命運を察していた彼女が、死ぬまでにやりたいことがあるから、それまで時間を過ぎ去るままにさせておかずにはいられないかという想いが込められているのだろうというのは、彼女が最も嫌ったところの表面だけの解釈であり、もちろん、そういう感情もあっての歌詞なんだろうが、もっと美しいのは、イタリア語では時間が、観念の時間Tempoと、現実の時間Oraにわかれているように、現実の時間が意に反していたずらに過ぎることだけでなく、観念の時間であるところの過去・現在・未来の定義が、世間の定義を超えて、高貴なものになり、縛っておくことすらできない、ということなのではないか。
「いつかは情熱も記憶の底へ 愛し合う二人も セピアに変わる」と歌詞は続くけど、地上的とされる言葉である情熱にどこか観念性を帯びさせている部分が美しいだけでなく、情熱が記憶の底にいくということを強調してるということは、情熱はおそらく、未来ではなく、現在、二人が愛し合うことの情熱を指していて、現在、愛し合っている二人は時間の中に残らないのだろうか、世界に刻まれないのだろうかという儚さが雄大で良いと感じる。
もちろん、彼女は世界に名前を残したし、今後はもっと強く残るが、彼女がラジオで話していた、「この頃、アルバムのタイトルにもなった「永遠とはなにか」について考えるけど、歴史や神話と関係があると思う」という趣旨の発言そのままに、セピア色に変わる歴史や、その歴史が完遂されたかに見える一瞬が永遠だという定義は、イタリアの思想家・マッシモ・カッチャーリの永遠の定義と根本において同じである。
歌詞の話でいえば、『もう探さない』の一曲目に位置する「不思議ね…」が僕は一番好きで、二歳の頃よく見ていた『マジカル頭脳パワー』のエンディングで流れてたから脳に焼きついているのだけど、「不思議ね 記憶は空っぽにして 壊れたハートを そっと眠らせて in my dream」という部分が最高に好きだ。
この歌詞、「あぁ 時はすべてを変えてしまう 少年の瞳をずっと忘れないでね」の後に続くんだけど、好きな男性の少年のような瞳、すべてを変えてしまう時、あるいは、それらに変貌させられてしまうすべてのものに翻弄されているから、せめてもの懇願として、夢の中だけでも壊れたハートをそっと眠らせてほしい、といっているのではないだろうか。
現実にも、不眠症をわずらい、晩年は北朝鮮の拉致被害者の未来を考える「明日を夢見て」という曲や、ほとんど公開されていないメモに、母親が嫌いだったという趣旨のことを散々書いていた彼女だが、過去であるところの記憶を空っぽにしたかったのは、好きな男性の少年の瞳と、家族の記憶がつきものの忌々しい過去を混ぜたくなかったからなんだろうし、「明日を夢見て」は「夢に入り口にせっかく立ったのに」という歌詞を含んでいて、それは、自分の愛や考え方の将来への志向性のなさは、「不思議ね…」の歌詞における「残された日々 夢を見させて」に象徴される、夢を追う瞬間=作品制作の時間、においてだけ、緩和され、観念の時間は思うがままにできる、という意識の中から発せられた言葉なんじゃないかと思う。
占星術や夢占いの世界では、予知夢とか、記憶の整理とか、未来予測とかそんなことは平気で話されるが、偶然性を含む占いの不甲斐なさを超えて、古今東西、人間が不動のものとして繋ぎ止めておきたい時間、すなわち現在と未来を、最高の美人の持つ美質で以ってして、過去を司る歴史観、それも偉人伝的な歴史観を最大限発揮し、釘付けにする、というこれが彼女の時間の思想の奥義であり、美しいなぁと思わず惚れ惚れしてしまう。
彼女の美質とはこのようなことが一部なのだろう!
僕は絶世の美女を紀元前一〇〇〇年から愛している。
その愛に預かることは現実においてどのくらいできるかわからないし、彼女は神を超えているので、彼女への愛の信仰を同じくする敬虔な美人と結婚したいが、愛することができるがゆえに、とにもかくにも、僕と僕の将来の奥さんになったらいいなぁって思える人は、世界でいちばんの幸せものなのだろう。
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了
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