南野 一紀
プラトン最大の著書とも呼ばれる『国家』の中で、ソクラテスが「裁判官とはいかなる人間が適任であるか」の理想について述べている箇所があるが、ここにも、プラトンの「己が命を賭けてでも、悪党と座をともにしない」という不撓不屈の精神・気概が見て取れて、私は感激のあまり「これぞまさしく大正義」と心の中で叫んでしまった。
ソクラテスの話によると、「若い頃、騙されやすかったが故に、悪とはなんであるかをよく理解している人間こそが、裁判官にはふさわしい」とのことで、「自らが悪の性質を強く持っているが故に、悪のなんたるかを理解している人間は、自分よりも優れた人間に対して見当違いな意見しかぶつけることができないので、裁判官にはなるべきでない」のだそうだ。
確かにその通りだと私も思う。
世の中、なぜそうなっているのか明快な理由こそわからないが、悪党ほど優れた人間を非難したがるし、その非難のすべては優れた人間のなんたるかが理解できないが故に、見当違いも甚だしく、優れた人間からすると、「なんでこいつは自らの悪性を反省することなく、さも自分の意見が正義であるかのように、優れた人間に人心を腐らせるようなネガティヴな意見を伝えることができるのだろう」と不思議に思えるのであるが、なるほど、このような悪党を不幸に貶めるべく、正義の人間は存在しているのだということは自明だ。
『国家』では、「裁判官はこのようであるべきだ」と書かれているが、本来、人間すべてがそうであるべきだし、また文学者もそうであるべきなのだろう。
もし文学者が美的に優れたものや人を幸福にするような正しい意見を、作品に書き発信したいということであれば、日頃から、悪党のなんたるかを観察し、心の中はもとより、裁判にかけるということは稀だとしても、多かれ少なかれ、悪党を正義の言葉により断罪することで、自分の中にある正義や美徳を修練することが大切になってくる。
美しいものや人を幸福にするような正しい意見を発信したいと思わないなら、私はその人間の作品は人を醜く不幸にするから、即、文学をやめるべきだと思うし、そのことが露見すれば、世の中のほとんどの人間もそれに同意するだろう。
話を戻すと、人間というのは、正義の心を持つ限りにおいて、多かれ少なかれ、みな日常における裁判官なのである。
いかに悪党や醜い人間を断罪できるか。
これこそが正義の党や美しい人間を擁護することに直結することであるからして、絶対に譲ってはいけない。
私は真の美に奉仕する人間でありたい。
裁判における必勝法は、一時的に美や正義が、悪党の見当違いな意見によって批判されたとしても、自分は絶対に正しいのだと信じ、心からの自信でその悪党と戦うことをやめないことだ。
そうすれば、いずれ必ず、勝利の女神が陽気に微笑んで、人を助けてくれる。
日夜、悪党の不当な非難や災いによって、自らの持つ美や正義が揺らぎそうになったとしても、美や正義に対する信仰だけが、人生における絶対だということを忘れてはならない。
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了
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