南野 一紀
一度、美の認識が得られると、迷妄の最中にいる者の醜さがありありとわかるから、人はよかれと思い、美とはなんであるかを迷妄の人に説くのだけど、得られるのは無益な反感と周囲から受ける誤解の眼差しだけ、ということは往々にしてある。 そんな夜は、トマティートの情熱の檄文に静かにうなずいていたい。
この文章は現代イタリアの作家・アントニオ・タブッキが書いたエッセイ作品からの引用、ではなく、私が先ほどスペインのギタリスト・トマティートについてツイッターに投稿した短文であるが、私はここ最近、このような内容のことを人に伝えるためには、やはり訥々と言葉を並べているだけではダメで、むしろ情熱的な語り口によって、人に美のモデルを提示し、そのあとから文章内容が理解されるというほどに熱のこもった語り口でもってして作品を書くということ以外には、もはや私の文学には存在価値はないんじゃないかということを切に感じるのだ。
機械に書ける文章なら、機械に任せておけばいいというのが私個人の持論だし、結局のところ私には美学的観想に依拠する情熱しか取り柄がないのだから、それそのように自分の天命を受け入れ、やがて燃え尽き宇宙のチリと消えていく流星さながら、豪放に己が命を華々しく咲かせては散らし、死んでいくことしかできない、というか、すべきだ、と心から感じている。
ギターでもって饒舌多弁に、まるでお国自慢をする地方のオヤジのように、捕まったら最後、とどまるところを知らないピッキングで在らん限りわがままに、スペインとは何であるか、その存在意義と輝きとはいかなるものかを、一方通行で語り続け、人の耳を燃やしてしまうといったような、この男性の魅力といったら、他の追随を許すものでは決してない。
夜。一人、部屋の中でウイスキーを呑みながら、トマティートの演奏に耳を傾ける。
トマティート当人がどういう姿勢で音楽をやっているかは、本人に訊かないとわからないのももちろんある。しかしそこを演奏から積極的な冒険的読みで解釈し、「この読みから得た果実こそは我が手柄であるのだ!」と豪語するのが評論家という生き物であり、私も文学者の端くれかな、そのような性はやはり拭えない。
これは独断だが、トマティートに先の短文を質問の形で投げかけたら、おそらく、「情熱のためなら、無益な反感や周囲から受ける誤解の視線などいくらでも買って出るよ。それにそもそもそんな批難を恐れているなら、私はギターをとうの昔に、その辺の路上にでも捨て去っている」というようなことを答えるんじゃないかと思う。
トマティートの聴衆に投げかけた音塊が、愛すべき女性への口説き文句が、観想の断片を書き留めた走り書きのノートが、ワイングラスに浮かんでは消える夢見心地の夜の記憶が、私の脳を一閃、貫く時、私はその瞬間こそをまさに「詩」と呼ぶだろう。
詩とは本質的にそういうものである。
つまりポエジーが迫ってきて人を捉える時だけが詩なのであり、情熱がないなら私は今すぐ文学を投げ捨てるべきだ、という美学を胸にこれからも文学と対峙しようと思っているということが言いたい。
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了
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